週1回2時間。
この時間を「浪費」するのか「集中」するのかで、この先5年で、全く違う「人生」を歩むことになる。
今日は、週1回の「長久手ダンスレッスン」の日。
朝から「健康体」のお墨付きを頂いたことで、気持ちも軽やかにレッスンへ。
俺には俺が出来ることがあり、俺にしか出来ないことがある。
これは言い換えると「存在価値」という言葉にも置き換わる。「適材適所」という表現も可能かな。
若干ニアンスは異なるとは思うのだが、俺は常々「俺でなくても良いところには居たくない」「居る必要がない」と考えている。
だったらその分、その場所に適した人間にチャンスを与えてあげればいいだけの事だから。
そこをワザワザ侵してまで、自分の物にしようとは思わない。
今、教えているクラスは「ダンススクール」で講師をしているわけではない。
地元の「サークル」として、そこの先生として教えている。
だからこそ、ビジネスにはなっていない。じゃあなぜ、ビジネスになっていないのにそこで教えているのか。
それは俺が必要とされているからであり、俺なりに目標を持ち、そこを目指しているから。
これは完全に俺の勝手な目標であり、その子達が望んでいる物、目指している物ではないかも知れない。しかし、一つ確実に言える事は、彼女たちが目指している物の過程の途中にある物(場所)を俺は俺の目標地点として設定しているという事。
長久手で教え始めて半年ほどになる。
本人達はまだ全然気が付いていないようだが、この半年でかなりの成長を遂げてきている。
当然それはまだまだ途中ではあるのだが、成長はしている。
今日、それをこのサークルの主催者から言われた。
「自分もダンスに関しては素人で、このクラスも最初はどうなるのか、どうなってゆくのか全くわからなかったのですが、彼女たちの成長が最近わかるんですよ」と。
この年代の子供達は、吸収力が良いので、継続すれば必ず結果は付いてくる。
ただ、その成長の度合いは、周りからの力ではなく、自分自身の「意識」が大きく左右する。
たかが、2時間のクラスに「集中出来ない」子は、所詮その成長率は、その程度。
しかし、「どうしてもこの動きを習得したい」と強い意識を持つ子は、その成長は2倍にも3倍にもなる。
残念ながら、今の子供達は、その「意識が低い」所に入ってしまう(涙
もっともっと、意識を高く持って集中すれば、もっともっと上手くなれるのに。
基本クラスでは俺は放置をする。細かな事は黙認する。
「言わなきゃわからない」ではなく、常識として「言わなくても出来なければならない事」だからだ。
人に対する言葉遣いから始まって、目上の人に対する態度、そんな細かな事全てだ。
俺自身、クラス前やクラス後、休憩中などは、奴らと一緒に馬鹿をする。それで良いと思っている。
それがお互い人としての距離、関係を近づけて行く物だと思っているから。しかし、俺は、友達ではない、あくまでも彼女達の先生であり、れっきとした大人なわけだ。特に、クラスの最中は別だ。先生という立場で立っている以上、彼女達に対して、それなりの物を与えてゆかなければならないから。
だからこそ、クラスの最中に使用する「曲」一つにしても、こだわりを持って選曲をする。
その日のレッスンでやる動きも、意味があってそれをやっている。
時には、激しい振りを付けて、汗だくになり、今日のようにスローな動きで、細かな大切な事を教える。それはそのタイミングでそれをすべきだからこそ、そのレッスンの内容を組む。
あらかじめ計画されたカリキュラムとしてではなく、その日、スタジオに入り、その日の生徒達を見て、感じ取って、そしてその内容を決定する。
今日なんか、行きの車で聞いていた「Let’s Hang / K7」にハマり、今日はこれで行くか〜〜とか思っていたんだけど、スタジオに入ってなぜか、ポッピングの基礎をやった(笑
内容は「ポッピング」なんだけど、これも当然意味があって事。
彼女達をポッパーにしたいわけではなく、ダンサーとして成長してゆくのに必要な要素だからこそやった。先々週(先週は休んだから)はロッキングをやった。
大切なのは「スタイル」を教える事ではなく「振りを教えること」でもない。
これから先、彼女達がダンスを踊ってゆく上で、ダンスを踊ることの楽しさを10倍、100倍にするそんな魔法を教えている(笑
しかし、この魔法も、幾ら俺が大先生で口を酸っぱくして言っても、本人達がそれを理解しようとする気持ちがなければ「馬に念仏」なわけさ。
「上手くなりたい」という意識を持っている子であれば、自分が出来ない事を何度も何度も繰り返し、自分の中でそのハードルをクリヤーする努力をする。
出来ないことよりも恥じるより、汗をかき、どろどろになって繰り返し自分が納得行くまでやる通すそんな意識が大切なのだ。
たかが週1回2時間のクラスで、俺が伝えられるのは、彼女達のダンス人生の中においてほんのごくわずかな物。
でも、そのわずかな物は、確実のこの先のダンス人生を大きく左右する物であることは間違いない。
「俺の色(ダンススタイル)に染める」のではなく「いかに真っ白な状態で俺の手元から巣立ってゆくのか」これが俺にとってとても大切なこと。
ダンスを教えていて「真っ白」というのは矛盾をしているように聞こえるだろうが、実はそうではないんだなあ。
癖のない「ちゃんとした基礎」を教える。これは実はとても難しい事なんだ。
俺も含め、ダンサーってやはり癖がある。そしてどうしてもその癖も一緒に伝わってしまう。
だから俺はクラスでは基本的に、極力振りは教えない。って言うよりも、それ以前に教えなければ、学んでもらわなければならないことが多すぎて、振りにまでたどり着けないというのが正確かな(笑
New York時代を含め、数多くの生徒が居るけれど、誰一人として、彼らの踊りを見て「あ!あいつENGIN#9の所の生徒だ」といわれるような「恥ずかしい」生徒を育てた経験は一度もない。
ダンスは「コピー」ではなく「個性」なんだよね。
だから踊りを見て「ENGIN#9の…」と言われるほど先生として「恥ずかしいこと」はないと俺は考えている。
そして、生徒であっても、それは、ダンサーとして視点を置き換えた場合、同時に「ライバル」でもあるわけだからね(笑
何で今日、ワザワザこんな真面目な話を書いているかというと、今日
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